「さあ ここを! ここを刺しなさい!!
ネロはここから生まれてきたんだから!!」byアグリッピナ 衝撃的なお言葉。
●「我が名はネロ」は文藝春秋のコミック・ビンゴという雑誌で連載されていました。このコミック・ビンゴは文藝春秋の悲願(?)の漫画雑誌創刊で、ゆくゆくは月2回刊に移行しコミック部門の核として育てていく方針だったようですが、その後の売れ行きは芳しくなく、わずか3年後の1999年5月号を最後に休刊、「我が名はネロ」は途中で頓挫してしまう事に・・・。
この雑誌は以後そのまま実質的に廃刊状態になり、他の掲載漫画と同様に、「我が名はネロ」もやむを得ず後半3話分を描き下ろす形をとって第2巻が刊行される事態となったのです。描きおろしを追加して物語も一応のけりがつき、無事単行本が刊行されただけでも良しとすべきですが、このような事態が無ければ、もう少し物語は長く続いたのかもしれません。
さて、作品タイトル「我が名はネロ」、この「ネロ」とはローマの皇帝ネロを指します。今現在リアルタイムで世界史を習っている方はともかく、Shinjiが勉強したのは遥か昔日のことなので、名前は覚えていても歴史上なにがあったのかまではハッキリ覚えているはずもありません。読み始める前に、事前に知識を入れておくべきか悩みましたが、逆に白紙の状態で読むほうが最後まで楽しめるかとも思い、下調べはしないまま読み始めました。
結果、個人名・地名・出来事など情報量が多く戸惑う部分もありましたが、最後まで飽きることなく読み通すことが出来ました。また、一度読み終えたあとでWeb上のローマ史資料を調べ、登場人物達に関わる過去の出来事、その後のローマ史などを頭の中で整理し、再読するとより頭に入りやすいと思います。Shinjiと同じ白紙状態の人はこんな読み方すればいいかも。
物語は当初、ネロ、アグリッピナ、レムスなどの登場人物からの視点や俯瞰視点で進められるが、第2巻あたりからレムスの視点での語りが多くなってくる。視点を統一する必要はないのだけど、いつの間にやらネロからレムスに主人公が摩り替わったようで、後半から物語の進行に少々違和感を感じた。いや、そもそもこの物語の主人公はネロとレムスの二人だったのだろうけど、物語の中心線はあくまでネロにあり、更にネロの個性が強烈に押し出されているので、どうにもレムスの存在感が希薄に感じてしまっていけない。わざわざ架空の人物を創り出し、奴隷剣闘士からネロお抱えの剣闘士に引き立てられる設定にしてまでネロの側に連れてきたのだから、もっとネロに絡ませていくほうが物語に動きが出て良かったと思うのだが、いかがだろうか?
レムスについてもう一つ。レムスは何故、コルブロ将軍は憎めて、コルブロの親玉でもありローマの頂点に立つ皇帝ネロに対しては憎悪を抱かなかったのだろうか? コルブロは彼の愛する同朋を殺し、人生の全てを奪った張本人だから当然として、その怒りの矛先が、身近に存在するコルブロの親玉ネロに向かないのが不思議だった。いや、ネロに対する憎悪がなかったわけではないだろう、しかし、レムスが実際に目にしたネロは、何でも自分の思い通りにできる力を持った最高権力者でありながら、同時にあまりにも脆く、不安定で、孤独な存在だった。ある意味不幸な境遇にも見えてくるネロに対して、一種の哀れみのようなものをレムスに抱かせたためだろうか?
結局、レムスのコルブロ将軍への復讐エピソードも中途半端で生かされず、ネロに対してどこか一歩引いた存在で、運命に翻弄されるばかりといった感じのレムスには面白みが感じられなかった。レムスが動かない存在だと感じる大きな原因は、彼自身で判断して行動する場面が極端に少なかったからかもしれない。まあ、ネロとレムスのそれぞれの身分の立場上、派手にレムスが動いてもすぐに処刑されて終わるだけかもしれないし、史実から大きくそれてしまう可能性もあり、立場の制約のために動きを限定せざるを得なかったのかもしれないけれど。
また、この物語で外せないのが母アグリッピナの存在だろう。とにかく自らの権力欲を満たすためにどんな手段を使ってでも息子のネロを皇帝に押し上げる気迫、ネロが自らを必要としなくなると感じると、ブリタニクスに乗り換えようとする世渡り上手さ(ブリタニクスはいい迷惑だったろうが)、そして1巻ラストに見せる鬼気迫る形相と台詞。ヤスヒコー助演女優賞を差し上げたいくらい存在感がありました。彼女は稀代の悪女として語られていますが、一方ではネロへの強い愛情も描かれています。彼女の屈折したネロへの愛情と、強い権力欲の裏には命の危険におびえる過去の不幸な時代が暗い影をおとしているわけで、自分の息子の命を守るために、皇帝の位につけようと必死になったのも、母としての愛情の表れだったのでしょう。結局息子を皇帝にしただけでは飽き足らなかったことが、彼女の運命を決定付けてしまいました。
こうした、ドロドロした人間関係や、次々殺される血族。何でもありの性関係。虐殺されるキリスト教徒・・・もうモラルもへったくれも無いシーンが続き、読んでて鬱になる過激な描写が多いのですが、こういう描写が苦手な方には少々辛いものがあるかもしれません。が、安彦氏の描きたかったものは、こういった過激なシーンをただ連ねることではなく、今から2000年前の物語でありながら、「道徳観念」の希薄さが現代の世相に通じるものがあり、皇帝ネロやレムスを通じて現代人の欲望と良心のあり方を問おうとしている点にあります(請売りですけど)。
過激なシーンの合間に、安彦流の遊びもところどころに見受けられ、特にネロの着ぐるみ演技シーンなどは、ほとんど悪乗り暴走(笑)している感もありますが全体を見渡せば丁寧に仕上がった作品だと感じます。さて、もしもあなたが、現実になんでも実現できてしまう権力を握ってしまったとしたら、あなたならどうしますか?
2004/03/14 shinji
【あらすじ】
●紀元前1世紀のローマ。権力欲の強い母に担がれたネロはローマの皇帝の座に就く。哲学者セネカの協力の下、最初は皇帝としての仕事をこなしていくのだが、やがて現実から逃れるように芸術に浸り、肉欲に溺れ、肉親を次々と殺してゆく暴君へと変貌していく。
【情報リンク】皇帝&ネロで検索。以下のサイトなんか結構わかりやすく情報量も豊富でした。
★世界史講義録 (オススメ 面白いです)
★やっぴらんど・・・楽しい世界史
・・・先史時代古代地中海文明
・・・PAX ROMANA(1)ヘンな皇帝たち
★古代ローマ ・・・ローマコイン(人物列伝) >ネロ
・・・ローマ史年表
【ネロ以前】
●ネロは「暴君」として語り継がれていますが、最初はそれなりに皇帝の職務をおこなっていたそうです。その後徐々に壊れていく彼ですが、ネロよりももっと壊れた人物が以前にもいたのです。特に突出した人物がカリグラ帝。カリグラ帝は馬をコンスル(執政官)にしようとしたり、自分の妹たちと肉体関係結び、さらに売春もさせる。そのうえ一族の男性ほとんどを殺していました。やること成すこと無茶苦茶で即位わずか4年で殺されています。
【ネロ以後】
●ネロの死後ユリウス=クラウディウス家は途絶え、短い期間に皇帝が何度か入れ替わり、その後五賢帝時代がはじまります。これがローマ帝国の最盛期の時代なのです。
【素朴な疑問】
●アフォな疑問だったのですが、過去に勉強した世界史の記憶は海馬体から削除されていたので、しょうがない。安彦氏の「アレクサンドロス」を読んだ後、「我が名はネロ」を読み返していると、何故アレクサンドロスはペルシアを滅ぼした後、イタリア半島に向かわずインド方面に向かったのか?ということ。調べた結果、単純な話征服するだけの魅力がなかったということか。当時ローマは200年ほど遅れた後進地帯だったそうな。しかし、アレクサンドロス死後分裂して力を弱めていくのを尻目に、ローマはヘレニズム国家をすべて支配する大帝国に発展していくんですね。
【書籍データ一覧】
- ビンゴミックス版 全2巻
- サイズ:B5版
- 出版社:文藝春秋
- 補足:2004/03現在 新規購入可能。中古も流通。入手容易です。
(1)1998年11月25日:ISBN 4-16-090040-2
(2)1999年09月25日:ISBN 4-16-090057-7
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- 中公文庫-コミック版 全2巻
- サイズ:文庫版
- 出版社:中央公論社
- 補足:2004/03現在 新規購入可能。中古も流通。入手容易です。
(1)2003年07月15日:ISBN 4-12-204242-9
(2)2003年08月25日:ISBN 4-12-204253-4
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【その他】
●皇帝ネロについて「クォ・ヴァディス」(1952・アメリカ)という映画が過去に作られていますが、この作品を読んで思い浮かんだのがラッセル・クロウ主演&リドリー・スコット監督の「グラディエーター」(2000年・アメリカ)です。
時代はローマ五賢帝の終わり、主人公は自己中な新皇帝の罠に嵌められ、将軍職や愛する肉親を奪われ将軍から一気に奴隷にされてしまうのですが、やがて剣闘士として復活し自らを追い落とした皇帝に迫る物語。 |
グラディエーターGladiator
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「我が名はネロ」のレムスと「グラディエーター」のマキシマスが剣闘士つながりなわけで、そこから連想してしまったわけですが、どちらも切ない結末という点でも共通点があろうかと思われます。結構長編で疲れますが迫力ある映像を楽しみながら「我が名はネロ」と見比べるのもいいかも。
ちなみに「グラディエーター」は第73回アカデミー賞で5部門受賞、ラッセル君はアカデミー主演男優賞受賞しております。ラッセル・クロウの苦労した役作りも見所ですね。。。
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